2011年12月20日

成道会

 今年もあと十日ほどになりました。
 寺では今月初めからお堂の大掃除や正月準備に明け暮れる毎日が続いています。

 
 さて、先日の12月8日、寺では「成道会(じょうどうえ)」を営みました。
 この日は太平洋戦争の開戦の日として日本人には忘れることのない日ですし、私のようなオジサン世代にはビートルズのジョン・レノンが亡くなった日として記憶に留められる日。
 そして、この12月8日はお寺にとってはお釈迦さまがお悟り(これを「成道(じょうどう)」といいます)を開かれた日として特別な一日でもあります。


 お釈迦さまは今からおよそ2500年前、インドの釈迦族の王子として生まれ、名をゴータマ・シッダールタといいました。やがて富にも地位にも何不自由なく成長。誰もから王位を継ぐものと期待されていました。しかし、青年になったお釈迦さまは次第に胸をふさぐ若者となります。「なぜ人は老い、病み、やがて死んでいかなければならないのだろうか?」「どうしたらこの世の苦しみから遁れることができるか?」たとえ恵まれた環境に身を置く立場にあってもこの世の苦しみから遁れることができないという現実に直面し苦悩したシッダールタはとうとう王子の境遇を捨て出家します。29歳のときでした。そして、6年間の苦行ののち、12月8日のこの日、ブッダガヤの菩提樹のもとで成道され、「目ざめた者(ブッダ)」となられたのでした。

 
 竹林寺では4年前、お悟りを開いたお釈迦さまが初めてお説法をされたときのお姿を模した尊像をインドから迎えたことを機に、「めぐりのもり」内にお祀りするお釈迦さまの尊像の前で成道会を勤めています。
 この法会が他のお寺の成道会と異なりユニークなところはお経を現代語文で唱えるところでしょう。お悟りを開いたお釈迦さまが苦行時代をともにした五人の修行仲間に初めてお説法をされたときの内容がしるされた「聖求経(しょうぐきょう)」というお経を現代語文でお唱え(というか、朗読に近い)するのですが、ふだんよく耳にする漢語の読経とは違って、パーリ語であらわされた経典を現代語に訳したものをそのまま唱えるものですので、唱えていてもその意味内容が伝わってきます。それは、私たち僧侶にとっては、お釈迦さまの説かれた言葉をしっかりかみしめることによって、仏教の原点に立ち返ろうとする営みでもあります。



 「修行僧たちよ、じつにわたしもさとりを得る以前に、まださとりを得ていないボサツのままであったとき、みずから生まれるものでありながら、生まれるものだけを求め、みずから老いるものでありながら、老いるものだけを求め、みずから病めるものでありながら、病めるものだけを求め、みずから死ぬものでありながら、死ぬものだけを求め、みずから憂えるものでありながら、憂えるものだけを求め、みずから汚れるものでありながら、汚れるものだけを求めていた。
 修行僧たちよ、そのとき、そのわたしはつぎのように思った。『いったいどうして、わたしはみずから生まれるものでありながら、生まれるものだけを求め、みずから老いるものでありながら、老いるものだけを求め、みずから病めるものでありながら、病めるものだけを求め、みずから死ぬものでありながら、死ぬものだけを求め、みずから憂えるものでありながら、憂えるものだけを求め、みずから汚れるものでありながら、汚れるものだけを求めるのであろうか。さあ、わたしはむしろ、みずからは生まれるものであるけれども、生まれるものに患いを知り、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは老いるものであるけれども、老いるものに患いを知り、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは病めるものであるけれども、病めるものに患いを知り、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは死ぬものであるけれども、死ぬものに患いを知り、死ぬことのない安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは憂えるものであるけれども、憂えるものに患いを知り、憂えることのない安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは汚れるものであるけれども、汚れるものに患いを知り、汚れることのない安らぎであるニッバーナを求めよう』と。
 修行僧たちよ、その後、わたしはまだ年若く、黒々とした髪をし、すばらしい青春にあふれていたが、その人生の初期に、母と父は望まず、顔に涙を浮かべて泣いているにもかかわらず、髪とひげを剃りおとし、黄色の衣をまとい、在家から家なき状態へと出家した。」



 ちょっと長くなってしまいましたが、これは同経の中で、お釈迦さまが自らの出家への思いを述懐したものです。
 何度となく同じようなくり返しが続き、今の私たちには多少まどろっこしく感じられるところもありますが、これらを声に出してお唱えていると、その昔、お釈迦さまが弟子たちが理解できるようかみ砕きかみ砕き、くり返しくり返し説いては、弟子たちを自らが到った境地に導きたいとするお釈迦さまのお姿が浮かんでくるようです。


 近頃、お釈迦さまの教えが注目されています。考えてみれば、モノに恵まれ快適に暮らす今日の私たちは2500年前のお釈迦さまの若き日の境遇と同じともいえます。でも、さまざまな快適さに囲まれていても心が満たされたわけではなくどこかしら不安を抱え生きる拠り所を見いだせない今日の私たち。それも若き日のお釈迦さまと同じです。


 来年の成道会にはぜひお出でになっていっしょにお経をお唱えしてみませんか。
 お釈迦さまが私たちに遺してくださった教えを心のやすらぎに到る道しるべとして、ともに歩んでいきたいものです。

(海老塚和秀)

posted by 竹林寺 at 15:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月11日

西国三十三観音巡礼

11月14日より2泊3日で西国三十三観音の礼に行ってきました。今回で2回目となる観音霊場の参拝は、奈良、京都市内を中心に回ってきました。各宗派を代表する由緒正しい寺院を参拝させていただく中で、多くを学ぶことができた実りある巡拝でありました。

 

ご一緒に参拝した参加者の皆さまにお世話になりながら、お寺の説明をさせていただいたたり夜のお寺を拝観したりとお寺が今後、皆さんにどのようなことをしていけるのか。その可能性を垣間見ることができました。

 

11(H23)11.14~16 第2回西国巡礼 018.JPG

竹林寺では、各札所でお経を唱えし、御詠会の皆さんにご詠歌をお唱えいただきました。とても印象に残ったのは、ご詠歌が以前よりも声が揃いとても上手になっていたことです。特に素晴らしかったのは、竹林寺が属している真言宗智山派の総本山である智積院をお参りしたときのこと。この日は、智積院の僧侶や全国から修行に集まってきた僧侶が百名以上おり、皆さんとても緊張されていたと思いますが、今まで聞かせていただいた御詠歌の中で一番素晴らしかったのではないかと思うほどきれいなお声を聞かせていただきました。

それも、あれだけ大勢の僧侶の前で堂々と御詠歌をお唱え出来たことは、人を意識せず、仏さまと向き合えたからだと思います。

 

京都での夜は、二手に分かれて夜の拝観にも行くことができました。昼間の雰囲気とは全く異なったお寺の姿を見ることができました。竹林寺でも、観月会など夜に境内をライトアップする機会がありますので、勉強にもなりましたし、主催側ではなく参拝する側の視点からお寺を見ることが出来たのは大きな収穫でした。

今までは竹林寺をみて「京都みたいだね。」とお褒めの言葉を頂いたことがありましたが、今後は、京都のお寺を観て、「竹林寺みたいだね。」と言っていただけるようなお寺作りを心がけたいと思います。

今回の参拝も、皆が怪我なく帰って来れたこと、しっかりとお勤めさせていただいて充実できたことが何よりも有り難いことでした。今回の経験を生かし、次回は今回以上に良いお参りができるようにしたいと思います。(内田龍雅)

posted by 竹林寺 at 14:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

竹林寺のお写経が世界に

 

1128日にNHKワールドの取材がありました。今回の撮影は、海外での放送、インターネット放送が主となる番組と言うことで、写経を受けるのは、9歳から日本に住んでいるというリポーターのベニさん。彼女には写経体験をしていただきました。

カメラが入っていましたが、さすがに慣れている様子で僧侶が説明することを、英語でカメラに向かって説明していたのが印象的でした。

 

お写経が始まってとても興味深く感じられた事がありました。それは、普段お写経をなさる日本人の方々とベニさんとの違いでした。お写経を始める前に、心を落ち着かせ清めるために瞑想をするのですが、日本人の方は瞑想が終わりお写経を始めると終わるまで一生懸命に書き続ける方が多いように感じますが、ベニさんの場合はお写経の途中に瞑想を幾度か取り入れることで、気持ちを落ち着かせようとしていました。文化の違いなのでしょうが、日本人の私としては勉強させてもらった一面だったように思います。

 

全世界131カ国で放送される予定とのことです。インターネットでも放送されると聞いております。寺社仏閣は、日本を訪れる方にとって観光地として、とても人気があります。しかしただ観るだけではなく、体験する事で学べることも多くあると思いますので、日本そして仏教への関心を持っていただくためにも、お写経をしていただくことは有意義な時間ではないでしょうか。今回の撮影は日本の文化を海外へ伝える良いチャンスでありました。同時に、私達僧侶も今以上にお写経の本来の目的を学び、実践して行くことでお伝えする内容を深くしていくことが求められます。お伝えすることで、学んでいただくこともあれば、僧侶が教えていただく場面も多々ある事が、今までのお写経の説明をさせていただいてよくわかりました。皆さまと切磋琢磨しながら、お互いが充実した時間を過ごせるように、これからもお写経を続けて行きたいと思います。 (内田龍雅)

posted by 竹林寺 at 14:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする