今年もあと十日ほどになりました。
寺では今月初めからお堂の大掃除や正月準備に明け暮れる毎日が続いています。
さて、先日の12月8日、寺では「成道会(じょうどうえ)」を営みました。
この日は太平洋戦争の開戦の日として日本人には忘れることのない日ですし、私のようなオジサン世代にはビートルズのジョン・レノンが亡くなった日として記憶に留められる日。
そして、この12月8日はお寺にとってはお釈迦さまがお悟り(これを「成道(じょうどう)」といいます)を開かれた日として特別な一日でもあります。
お釈迦さまは今からおよそ2500年前、インドの釈迦族の王子として生まれ、名をゴータマ・シッダールタといいました。やがて富にも地位にも何不自由なく成長。誰もから王位を継ぐものと期待されていました。しかし、青年になったお釈迦さまは次第に胸をふさぐ若者となります。「なぜ人は老い、病み、やがて死んでいかなければならないのだろうか?」「どうしたらこの世の苦しみから遁れることができるか?」たとえ恵まれた環境に身を置く立場にあってもこの世の苦しみから遁れることができないという現実に直面し苦悩したシッダールタはとうとう王子の境遇を捨て出家します。29歳のときでした。そして、6年間の苦行ののち、12月8日のこの日、ブッダガヤの菩提樹のもとで成道され、「目ざめた者(ブッダ)」となられたのでした。
竹林寺では4年前、お悟りを開いたお釈迦さまが初めてお説法をされたときのお姿を模した尊像をインドから迎えたことを機に、「めぐりのもり」内にお祀りするお釈迦さまの尊像の前で成道会を勤めています。
この法会が他のお寺の成道会と異なりユニークなところはお経を現代語文で唱えるところでしょう。お悟りを開いたお釈迦さまが苦行時代をともにした五人の修行仲間に初めてお説法をされたときの内容がしるされた「聖求経(しょうぐきょう)」というお経を現代語文でお唱え(というか、朗読に近い)するのですが、ふだんよく耳にする漢語の読経とは違って、パーリ語であらわされた経典を現代語に訳したものをそのまま唱えるものですので、唱えていてもその意味内容が伝わってきます。それは、私たち僧侶にとっては、お釈迦さまの説かれた言葉をしっかりかみしめることによって、仏教の原点に立ち返ろうとする営みでもあります。
「修行僧たちよ、じつにわたしもさとりを得る以前に、まださとりを得ていないボサツのままであったとき、みずから生まれるものでありながら、生まれるものだけを求め、みずから老いるものでありながら、老いるものだけを求め、みずから病めるものでありながら、病めるものだけを求め、みずから死ぬものでありながら、死ぬものだけを求め、みずから憂えるものでありながら、憂えるものだけを求め、みずから汚れるものでありながら、汚れるものだけを求めていた。
修行僧たちよ、そのとき、そのわたしはつぎのように思った。『いったいどうして、わたしはみずから生まれるものでありながら、生まれるものだけを求め、みずから老いるものでありながら、老いるものだけを求め、みずから病めるものでありながら、病めるものだけを求め、みずから死ぬものでありながら、死ぬものだけを求め、みずから憂えるものでありながら、憂えるものだけを求め、みずから汚れるものでありながら、汚れるものだけを求めるのであろうか。さあ、わたしはむしろ、みずからは生まれるものであるけれども、生まれるものに患いを知り、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは老いるものであるけれども、老いるものに患いを知り、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは病めるものであるけれども、病めるものに患いを知り、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは死ぬものであるけれども、死ぬものに患いを知り、死ぬことのない安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは憂えるものであるけれども、憂えるものに患いを知り、憂えることのない安らぎであるニッバーナを求めよう。みずからは汚れるものであるけれども、汚れるものに患いを知り、汚れることのない安らぎであるニッバーナを求めよう』と。
修行僧たちよ、その後、わたしはまだ年若く、黒々とした髪をし、すばらしい青春にあふれていたが、その人生の初期に、母と父は望まず、顔に涙を浮かべて泣いているにもかかわらず、髪とひげを剃りおとし、黄色の衣をまとい、在家から家なき状態へと出家した。」
ちょっと長くなってしまいましたが、これは同経の中で、お釈迦さまが自らの出家への思いを述懐したものです。
何度となく同じようなくり返しが続き、今の私たちには多少まどろっこしく感じられるところもありますが、これらを声に出してお唱えていると、その昔、お釈迦さまが弟子たちが理解できるようかみ砕きかみ砕き、くり返しくり返し説いては、弟子たちを自らが到った境地に導きたいとするお釈迦さまのお姿が浮かんでくるようです。
近頃、お釈迦さまの教えが注目されています。考えてみれば、モノに恵まれ快適に暮らす今日の私たちは2500年前のお釈迦さまの若き日の境遇と同じともいえます。でも、さまざまな快適さに囲まれていても心が満たされたわけではなくどこかしら不安を抱え生きる拠り所を見いだせない今日の私たち。それも若き日のお釈迦さまと同じです。
来年の成道会にはぜひお出でになっていっしょにお経をお唱えしてみませんか。
お釈迦さまが私たちに遺してくださった教えを心のやすらぎに到る道しるべとして、ともに歩んでいきたいものです。
(海老塚和秀)



